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2022年10月18日

『時間の歴史』から学ぶ、現代人と時間のいい関係 #TimeDesignLab

Time Design Lab

#TimeDesignLab は「時間」との付き合い方を考えるプロジェクトです。時間の使い方や過ごし方について、さまざまな視点でみなさんと一緒に考えていきます。

今回は「時間の歴史」について、TimeTree代表の深川がまとめたコラムをお届けします。

「時間」はいつから大切になったのか?

時間って、不思議なものです。形がなく、とはいえ空気のように存在するわけでもなく、お金のようにやりとりできるものでもありません。また、「時間が足りない」「時間を節約する」「時は金なり」と言うかと思えば「時間を忘れて遊ぶ」と言ったり……。

一方で、現代人の多くが「時間は大切なもの」と考えています。では、昔から時間は大切だったのでしょうか。そもそもいつから人は時間を気にして生き、今私たちはどういう時間を生きているのでしょうか。

『時間の歴史』は古代から現代まで、人類の「時間」のとらえ方をまとめた超大作

「仕事で忙しくて毎日時間が足りない」「見たい映画が多すぎていくら時間があっても足りない」「忙しくしているけど、でも毎日なんとなく退屈している」など、人が時間について思うことはいろいろです。ただ、忙しい人も退屈な人も、1時間がすぎる速度は変わりません(でも体感時間は違いますね。楽しい時間はあっという間です)。

足りなかったりもてあましたり、時間とはいったい何なのでしょう? そんな「時間」について考える上でうってつけの本として、 フランスの経済学者・思想家であるジャック・アタリが書いた『時間の歴史』をご紹介します。本書は古代から現在まで、人類がどう時間をとらえ、取り扱ってきたか、時間が社会でどういう役割を果たしてきたかをまとめた大作です。

ジャック・アタリ、『時間の歴史』(原書房 1986年)

アタリは、過去の時代、時間は権力者や統治する側が多くの人をコントロールするために、区切りを定め、管理するためのものだったと書いています。まずは「時間」に関する大まかな時代の流れを見ていきましょう。

古代——権力者だけが知っていた「時間」

大昔は当然、時計などはありませんでした。いま何時何分なんて気にする必要もありません。それでも人々は大まかな時間を必要としていました。なぜかというと、農耕や牧畜を営むために、いつ種をまき、いつ雨乞いをすべきなのか? そういったタイミングを知らなければいけなかったからです。

それらを知っているのは、コミュニティの長のような権力者でした。彼らが神様の意図を解釈し、暦を決める。暦にしたがって、みんなが農業上の作業をこなす。これが最初の時間概念です。

その後、キリスト教が生まれると、修道院が1日を7つの区分にわけて鐘を鳴らすようになりました。人々はその鐘に従い、教会が定めた神様のルールにそって行動していたそうです。

中世——時計が誕生して規則的な生活が社会ステータスに

その後、都市が生まれ、商人や王侯貴族が都市を支配しました。また、利子や簿記が生まれ、時間が価値を持つようになります。

この頃に最初の工業機械とも言われる「大時計」が生まれます。1時間を60分、1分を60秒とするようになったのもこの時期です。さらに、「鐘の音を待たずに時を知りたい」という人々の要請で、大時計に文字盤ができました。

時計は徐々に小型化し、個人宅にも置けるサイズになります。それを独占したのは、裕福な階級でした。時計のように規則的であるというのは都市生活の理想像となり、時計を持つということは成功した商人の証にもなりました。

近代——工場労働が生まれて「時間」がお金を生み出す

産業革命のころ、工業化と資本主義が進んで「時間=お金の価値」になります。今で言う「時給」のような、作業した時間だけお金の価値が生産されるという考えが生まれたのがこの頃です。

そうすると、働いていない時間=休んでいる時間も、単なる自由時間ではなく“次の生産のための準備期間”になります。工場などを持つ資本家は、働く人たちの時間のマスターになり、効率重視で人間を機械のように扱い始めました。

この頃には時計もさらに小型化し、懐中時計として個人が持つようになりました。しかし、時計の精度はまだ悪く、地域や家庭ごとに時計の時間はズレているものでした。新しい街に着いたらまずその街の時計に、自分の懐中時計の時間をあわせる必要がありました。この時代、電話交換手が受ける電話で最も多いのが時間の確認だったという話もあります。

そして現代——世界で「時間」がひとつになり恒常的な徹夜状態に

そして現代、クォーツ時計と無線ネットワークで、どこに行っても時計がずれることはありません。ジャック・アタリは、著書の中で「こうなると世界が『恒常的な徹夜』になり、そこでは『極めて短い休息』しか存在しなくなる」と言っています。

全世界の時間がつながり、常にどこかで世界が動いている中、ほんの少ししか休息を取れなくなるイメージでしょうか。 このように世界時間が単一になると、逆に個々の人間は「固有の時間の流れ」を生きることになります。「時間は、個々人それぞれの文脈でそれぞれにとっての意味を見出されるようになっていく」とアタリは記述しています。

これは、時間が「みんなで同時にこの時間にこうしてくださいと要請されるもの」でなく、「人々がそれぞれの自由をお互いに調整するための物差し」になったと言えるのではないでしょうか。

「恒常的な徹夜」が加速しつづける

『時間の歴史』は1986年に書かれたものなのですが、私は先見の明に驚きました。世界が「恒常的な徹夜」になって、「極めて短い休息」しか存在しなくなるとはなんと的確な表現でしょう。

まさに今、世の中は世界的な同期がなされ、どんな時間でもどこかでニュースが、新しいコンテンツが、仕事が生み出され続けていて、世界は休むことがありません。その中で個々人は、ほんの数分のすき間にTikTokやTwitterなどのエンターテイメント(=気晴らし)を詰め込んでいます。

「最後に何もかも忘れて長い休息をしたのはいつだろう?」と思っている人は多いのではないでしょうか。そして今はアタリが予測したよりも、この「世界の恒常的な徹夜」「極めて短い休息」「固有の時間の流れ」は加速しているようにすら思います。

深川注:非常に簡単なまとめを記載しましたが、書籍にはいかに人間が暴力(自然あるいは人間によるもの)を管理し、死の恐怖を払拭するために時間という尺度を必要とし活用してきたか、それがいかに権力と結びついたものか、が遠大に記述されています。興味を持たれた方はぜひ読んでみてください!

以上がジャック・アタリ『時間の歴史』の大まかなまとめでした。

いくつもの時間軸が複雑に溶け合う時代

世界がどんどん忙しく、細切れになる中で、「個々人の時間の流れ」とは何を指すのでしょう? それは「その人が所属するコミュニティーの時間」ではないでしょうか?

家族の中の時間軸と、会社の時間軸は違います。人は、所属するコミュニティーの分だけ固有の時間を生きています。そのコミュニティーの時間も今どんどん複雑に溶け合っていっています。

かつて、時間軸の切り替えはもっとシンプルに行われていました。しかし、 新型コロナのパンデミック以降リモートワークが一般的になり、家族の時間と会社の時間の切り替えは前ほどシンプルではなくなりました。副業や複業をする人も増え、「ワークライフブレンド」という新しい言葉も生まれています。家族の時間、勤務先の時間、副業先の時間、趣味的なNPOの時間、など複数のコミュニティー、複数の時間軸をツギハギ状に生きるのがこれからの時代といえるのではないでしょうか。

さらに、コミュニケーションはどんどん速度を増しています。以前は、1日ごとにメールをやりとりすれば進んでいた仕事がチャットに変わり、数分単位のやりとりになりました。また、プライベートでもいろいろな関係の相手と、ほぼリアルタイムなやりとりが起きます。そして、コミュニケーションが進むほど事態が進むため、複数の時間軸で、事態の進展がどんどん早まっているのが現代です。

一方、加速する時間の流れの中で、「できること」は増え続けています。

例えば、Netflixのような動画サービス、漫画アプリ、Podcastなどでは日々膨大なコンテンツが追加されていき、それらの娯楽は「いつでも、見たいときに」消費できるようになっています。それは逆にいえば、今じゃなくても見ることができる。「見逃したから諦めるか……仕方ない……」がないのです。

「できること」がたくさんあると、何かを消費している最中にも、もっと面白いものがあるのでは? この時間は無駄なのでは? という疑念が頭のどこかに生まれます。

人は「利益の獲得性向」よりも「損失の回避性向」の方が強い、言い換えると「得したい気持ち」よりも「損したくない気持ち」の方が強い生き物と言われています。「もっと面白い何かがあるのでは?」と思うことは、ある意味、何かを損している不安をうっすらとずっと持ち続けているのと同じというのは言い過ぎでしょうか?

いわば、無限の選択肢によるストレスに晒され続けている状態です。 このような状況から「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉や、倍速視聴といった習慣が生まれたのではないでしょうか。

自らの時間を持つことの大切さ

こんな時代に、どう時間とつきあうのがよいのでしょうか? 正解はありませんが、私はこう考えています。

たくさんの情報に追い立てられて、あれもしなきゃ、これも観なきゃ、と振り回される時間は生きた心地がしません。でも情報量は増える一方で、あれもこれもと心は引っ張られがちです。 そんな中で大事なのは、「自分で意識する時間」「自分(たち)の時間」をいかに持っておくかです。

例えば、週末にキャンプの約束をすると、その日までを楽しみにできる。未来に楽しみな予定があることで、時間に振り回される毎日がキャンプを楽しみに頑張る時間に変わります。

自分が心から価値を感じる時間とは「パフォーマンス」で計れないものではないでしょうか。時間をパフォーマンスで測る限り「もっとよい時間の使い方がありうるはず」という可能性を拭えず、「今、これをする理由」をどんどん失っていっているように思います。

それぞれの人生の時間は他に変えがたい価値を持つものですが、最も価値が高いのは「時間を忘れて何かを楽しむ時」ではないでしょうか。金額換算できない、パフォーマンスで測れないものが真の価値だといえます。

完璧な時間管理を捨て、未来をやんわり決めていく

加速していく世界で、時間を上手に管理するのは大切なことです。 しかし複数の時間の流れがあり、情報量も人とのやりとりも加速し続ける中で「自分で時間をコントロールしよう」と思いすぎてしまうことは自分を追い詰めることになりかねません。複数のコミュニティー(= 関係)の中でコミュニケーションしながらやんわりと未来を選び取り、なんとなくこれかなと思う機会をとらえていくような付き合い方が、自然で疲れないのではないかと思います。

前述のアタリは、『時間の歴史』をこんなメッセージで締めます。

「各人が固有のリズムを規定し、他者によって作られた時間を買うよりも、自らの手で創り出すことを選ぶ<自己の時>を創造しなければならない。つまり、他者の時に沿って押し流されるよりも、自己の時を生き、他者の機械によって繰り返される音楽を聴くよりも、自分自身の音楽を演奏すること」

無限の選択肢と情報の洪水の中で、それをコントロールしようと疲弊するのでなく、自分と身の回りの関係の中で、自分の時間を取り戻す機会をデザインするには、「すべてをコントロールしようとしないこと」「多すぎる選択肢をなんとなくのフィーリングで捨てること」「関係の中で自然に機会をとらえること」といった、ある意味完璧を諦めた軽やかな時間のとらえ方が、いま求められるのだと私は思います。